文化財詳細情報

広田遺跡(ひろたいせき)

国指定文化財 平成20年3月28日指定
広田遺跡

広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地です。
弥生時代後期から古墳時代併行期の種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓などはつくらず、海岸の砂丘に墓地をつくったのです。
この遺跡の調査は、昭和32年から34年にかけて国分直一・盛園尚孝氏らによって行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から157体の人骨が出土しました。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました。また、上顎の側切歯を1本だけ抜歯したり、後頭部を扁平(いわゆる絶壁頭)にしたりする特異な習俗をもつことがわかりました。
これらの人骨は、奄美・沖縄諸島でとれる貝を素材とした貝輪や玉、幾何学文が彫刻された貝符や、竜佩形貝垂飾など総数44,242点にも及ぶ豊富で多彩な貝製の装身具を身につけていました。このような習俗・貝の装飾文化は、日本列島でこれまで他に例がありません。
平成1718年には、南種子町教育委員会による発掘調査が行われました。その調査では、昭和30年代の調査で砂丘の南端でみつかった墓地(南側墓群)の範囲が、さらに西側に拡大することや、広田川に面した砂丘北端にも同時期の墓地(北側墓群)が存在することが新たにわかり、遺跡の範囲が拡大することがわかりました。
この調査で、南側墓群で11基、北側墓群で9基の埋葬遺構を確認し、2,966点の貝製の装身具と92点の土器、28点のガラス小玉、15点の石器が出土しています。
平成20328日には、「列島の弥生、古墳時代社会と南島社会の接点における社会・生活のあり方を知るだけでなく、わが国の文化形成の多様性を知るうえで重要な遺跡である。」ことから、種子島で初めての国の史跡指定を受けました。

詳細についてはコチラをご覧ください。

座敷舞(ざしきまー)

県指定文化財 昭和43年3月31日指定
座敷舞 座敷舞は、宴の余興で踊られる舞です。舞手が簡単な扮装をして、歌いながら物まねをするようなしぐさで、ユーモラスに踊る楽しく味わいのある舞です。座敷舞は、笛や太鼓といった鳴り物がないことや、歌詞に種子島の方言が多くみられることから、中世の頃、中央から伝わった芸能が元となり、この島でつくられた踊りではないかといわれています。 現在、座敷舞が伝承されているのは、平山と島間だけです。「鳥刺舞」は全国的に見られますが、「ガニ舞」「婆ジョウ舞」「バックー舞(伝承者 柳田拓男氏)」などは南種子のみ伝承されている貴重な舞です。そのため、昭和56年に文化財保存活用事業として後継者の育成に努め、平成7年には「種子島南種子の座敷舞」として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として国に選択されました。

蚕舞(かーごまー)

県指定文化財 昭和43年3月31日指定
蚕舞 蚕舞は、1月14日から15日にかけて、白頭巾に白足袋、着物姿で女装した二才(にせ)(青年男子)を中心に、地域の青年や子供たちで構成される一団が、各家を訪問して祝う小正月行事です。まず玄関に並び、太鼓と鉦に合わせて歌をうたいます。そして、ヨメジョウ(女装した舞手で蚕の神様を表現)が座敷にあがり、舞い、さらに座敷の隅にさしてあるゴーサシ(柳の枝に餅をさしてマユや稲穂に似せたもの)を担い優雅に舞います。そのそばでゲーマー(芸回)と呼ばれる道化役が、面白おかしい仕草をして踊り、ヨメジョウの舞をひきたたせます。舞や歌の形態は、島内各地域によって多少の違いがみられます。
もともと蚕舞は、養蚕が盛んになるようにと、島主が奨励して行わせたものといわれていますが、現在は、家内繁栄や豊年満作を祝う行事として伝承されています。

松寿院の安政の川直しの碑と水天之碑(しょうじゅいんのあんせいのかわなおしのひとすいてんのひ)

町指定文化財 平成20年4月28日指定
松寿院 松寿院の安政の川直しの碑は、種子島家第23代久道の夫人松寿院の業績をたたえ、平山の人々が、万延2年(1861)に大浦川の旧河道と新河道の分岐する土手の上に建てたものです。当時、平山から熊野へ行く道は大浦川の潮が満ちると、人馬の通行が困難で、満潮時になると海から潮が入り農作物も甚大な塩害を受けていました。
松寿院は、この潮害の原因が、川が蛇行しているからだと考えて、川幅を広げ、まっすぐな川を新たに作る工事を行いました。この工事によって、満潮時の洪水の害を防ぐことができるようになり、荒れ田であったものが立派な美田となりました。この大事業は、安政4年(1857)10月はじめに完成しました。その年の12月、川直しの大工事が無事完成し願いがかなえられたことに感謝して、松寿院は、祠をつくり宝光権現と名づけ祀りました。また翌年の2月には、水天之碑を建立しています。

岩穴(いわな)

町指定文化財 昭和47年3月30日指定
岩穴 岩穴は、種子島に古くから伝わる乾燥浴、岩穴焚きが行われた場所で、南方起源の風習だといわれています。
岩穴焚きは、現在のサウナ風呂のようなもので、農閑期に行われ、瀬風呂焚き同様、古くから民間入浴療法として親しまれてきました。10日~15日の療養期間で、ヒエヒキ(破傷風)・神経痛・リュウマチ等に効果があったといわれています。また、何より集落民の大切なコミュニケーションの場でもありました。
岩穴焚きの方法は、まず中で火を焚き岩穴の中全体を暖めます。次に穴の中央に残り火を集め、その周囲に小枝や柴、ゲットウの葉、バショウの葉等を敷きつめ、入浴者はその上に座ります。そして最後に藁で作った蓋で入り口を密閉し、発汗を促すという方法です。

広田石塔祭(ひろたせきとうまつり)

町指定文化財 昭和47年3月30日指定
石塔祭 広田遺跡公園から北へ約100mの右手にある小高い丘が、広田集落の石塔祭の祭場です。石塔祭は、共同の祖先の霊を祭った石塔の前に集落民が集まって精霊様を供養し送るお盆の行事で、毎年8月15日に行われています。
祭場の中央にあるオコーソ(御高祖)と呼ばれる五輪塔の前に大棚を組み、祭場の周りに9つある小石塔の前に一族ごとの小棚を組みます。各家から小籠にバショウやエンガ(ホウセンカ)の葉や花びらなどを刻んだもの、マキ(ハナミョウガの葉に米の粉を包み蒸して作った団子)、線香などを入れ、 棚にお供えします。そして僧侶が読経をする中、それぞれ祖先の霊に参拝して祭は終了します。最後に、お供えしたマキを必ず一本ずつ食べて帰るしきたりになっていて、これを食べると、1年間健康であるといわれています。

吉助橋(きちすけばし)

町選定文化財
吉助橋 吉助橋は、平山から熊野に通じる県道の大浦トンネルの所にかかっていました。橋の横には、昭和42年1月に平山の人々により、坂口吉助翁顕彰碑が建てられています。
碑文によると、昔、平山と熊野の間を流れる大浦川には橋がなく、満潮になると人馬の往来ができなかったそうです。そんな中、日露戦争が始まり、熊野神社に出征兵士の武運長久を祈る参拝者が増えたため、その不便さは目に余り、以前からここに橋をかけたいとの志があった吉助翁は、次男の出征を機に決意し工事を始めました。そして明治37年9月、一人で木製の橋を完成させました。その業績は後世に語りつがれ、いつしかこの橋を吉助橋と呼ぶようになったそうです。

菊池竹庵の墓(きくちちくあんのはか)

町選定文化財
菊池竹庵の墓 菊池竹庵は、文政12年(1829)平山瑞堯(ずいぎょう)(水牛)に生まれました。彼は、5歳の時に西之表の慈遠寺の小僧となり、その才能が認められ、10歳から鹿児島の正建寺(種子島家菩提寺)で修行しました。19歳の時、上洛し伊賀の法華寺に身を置きながら尊王攘夷を志し奔走しました。彼は、尊王派の志士と交流があったことから、一時、新撰組に捕縛されました。釈放後は、本能寺の末寺・東漸寺の役僧となっています。
戊辰戦争時、新政府軍が旧幕府方を攻めるために東征した際、竹庵は自ら進んでその道案内と敵情を探る役を申し出ました。上総国(千葉県)の五井で、敵陣営に忍び込みましたが、見つかり殺害されてしまいました。竹庵の遺体は、上総の八幡駅の円頓寺に仮埋葬され、明治3年3月22日、東京の大円寺に改葬されました。碑文の中に(僧侶の意味)の身をもって義にたおると記されています。

大浦塩田跡(おおうらえんでんあと)

町選定文化財
大浦塩田跡 大浦塩田跡は、大浦川の河口に広がる湿地帯にあり、種子島で初めて塩田式の製塩が始められたところです。それまでは、浜で海水を焚いて塩を取る方法でしたが、量がたくさん取れないため塩が不足していました。松寿院は、この塩不足を憂い、塩田開発に取り組みました。松寿院が安政3年(1856)、調査させたところ、ここが塩田に最適であることがわかり、翌年夏から製塩を始めました。最新の製塩法を導入し、さらに塩田の拡張工事を行ったので、大量に生産できるようになりました。
その後、明治27年に塩田拡張のため大規模な埋め立て工事が行われましたが、資金に困り、土地を売り渡してしまいました。しかしその後、平山の有志22名が土地を買取り、昭和9年、動力ポンプを取り付けた近代的な大塩田を完成させました。将来を期待されましたが、昭和27~28年頃になると塩の輸入が盛んになり、また値段も下がり採算が取れなくなったため中止されました。これにより、種子島における製塩の歴史に幕が降ろされたのです。

特務艦「志自岐」遭難記念碑(とくむかん「しじき」そうなんきねんひ)

町選定文化財
志自岐 記念碑は、大正8年8月におきた遭難事故の悲惨さを伝え、沈没した志自岐乗組員の御霊を弔うため、平山の人々により大正10年9月1日に建立されました。
大正8年8月4日、重油を満載してボルネオのタラカンを出港し、佐世保に向かっていた志自岐は、台湾沖から台風に巻き込まれました。8月15日、ようやくさしかかった種子島沖で暗礁に座礁し、沈没してしまいました。
遭難の知らせをうけた平山の人々は、総出で昼夜を問わず懸命の捜索を続けましたが、その甲斐もなく、乗組員120人中、生存者はわずか7人、そして15人の遺体を収容しただけでした。こうした平山の人々の救助並びに遺体の収容等の労に対して、帝国軍人会から褒賞が贈られました。

種子島宝満神社の御田植祭(たねがしまほうまんじんじゃのおたうえまつり)

国指定文化財 平成28年3月2日指定
宝満お田植え 松原集落にある宝満神社では、毎年4月5日頃、その年の豊作を祈願して、赤米のお田植え祭りが古式豊かに行われています。宝満神社は玉依(たまより)姫を祀る神社で、この神が海宮から五穀の種子を持参して、種子島に蒔いたと伝えられています。
祭の前日、宮座の人々は、お田の森の入口、お田、拝殿等に氏子から奉納された旗を立てます。そして当日の早朝、社人(しゃにん)と神職(ホイドン)によって祭場となるお田の森の神木の根元に、米・塩・大豆・酒・二束のオイネ(赤米)が供えられ、神事の準備が行われます。そして、いよいよお田植え祭りが始まります。まず、お田の森で神事が行われます。次に田植え歌に合わせて赤米の苗が植えられます。そして、お田の森前の舟田(神田)で社人夫妻によるお田植え舞が奉納されます。最後に直会(ナオライ)が行われ、お田植え奉仕者全員に赤米を原料にした甘酒と赤米のにぎり飯やツワブキ・竹の子・干し大根等を煮しめたご馳走が振る舞われます。直会には、神様と一緒に会食をするといった意味があるようです。

宝満の池(ほうまんのいけ)

町選定文化財
宝満の池 赤米のお田植え祭りで知られる宝満神社の奥にあり、種子島めぐりの名勝地の一つとなっています。周囲が約1,230m、深さ6m、南北460m、東西774m、面積49,308㎡で、種子島で一番大きな淡水池です。池にはコイやフナ、熱帯植物のハスやヒシなどが生息しています。また冬には、数百羽のマガモも渡来します。池の周囲は、宝満神社の神域となっていて、うっそうとした森の中に、ところどころ老木が枯れ果てた姿を見せる、神秘的な雰囲気の場所です。
池の南側には砂丘が迫っており、その砂丘を越えると海となっています。この宝満の池は、茎永層群(約1,000万年前にできた地層)の一部が沈降し、入江になった後、海との間を砂丘がせきとめてできた海跡湖だといわれています。

馬耕記念碑(ばこうきねんひ)

町選定文化財
馬耕記念碑 記念碑は、馬耕の発展に尽力をつくした先生方の功績をたたえ、また馬耕の歴史を後世に伝えるため大正3年3月、茎永の人々により建立されました。種子島で最初に馬耕が始まったのが茎永です。明治19年、熊本から招かれた春木敬太郎氏と三木彦四郎氏の両農業技師の指導によって始められました。馬耕は馬に鋤を引かせ田畑を耕すもので、馬の訓練がとても重要で、馬を自由自在に使いこなせるようになるまでには3ヵ月~半年ほどかかったといいます。人々の長年の努力により、島内で馬耕は次第に普及し、水稲栽培は大きく改善されました。また、馬耕が盛んになるにつれて、その早さや技術を競う馬耕競犂会が毎年開催されるようになりました。明治38年から昭和35年まで島内3市町でそれぞれ開催されました。

オニバス

町指定文化財 平成7年9月28日指定
オニバス 種子島宇宙センター内の水源地に生息しています。学名はEuryale ferox、スイレン科の一年生浮葉水草で、夏頃に薄紫の小さな花を咲かせます。原産地は東南アジアで、その葉や茎に鋭いトゲがあることから鬼蓮の名がついたといわれています。
本州、四国、九州の湖沼や河川に生息していましたが、環境の悪化や埋め立てなどで自生地は急速に減少し、環境庁レッドデータブックで絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。現在、南種子町が日本の南限となっています。町内ではほかに大浦川の古川でも生息しています。水源地には毎年数百羽のマガモが越冬しており、その越冬時期とオニバスの結実時期がほぼ同じであることから、マガモがオニバスの種子を運んできた可能性が指摘されています。

鰐口【下中八幡神社】(わにぐち【しもなかはちまんじんじゃ】)

県指定文化財 昭和42年3月31日指定
鰐口 鰐口は、社殿・仏堂前の軒下につるされる礼拝用の楽器の一種で、参拝のとき、前につるしてある布で編んだ綱を振り動かして鳴らすものです。周縁の上方2ヵ所に半円形の吊手、下方に切込み(口)がついており、この口を鰐の口に見立て鰐口の名がついたといわれています。下中八幡神社にある鰐口は、直径30㎝、厚さ8㎝、重さ7.4kgの青銅製で、県内でも最大級の大きさです。この鰐口は、応永77年(1426)3月吉日に西之村地頭の長谷部徳永が奉納したものです。

下中八幡神社お田植祭

町指定文化財 昭和47年3月30日指定
下中お田植え 茎永の宝満神社のお田植え祭りと並んで、下中八幡神社でも毎年3月にお田植祭が行われています。種子島でお田植祭が伝承されているのは、この2ヶ所だけです。
祭は、まず社人による夜明け前のシュエイ(潮井:海砂をタマシダや竹の笹で包んだもので、魔よけや神域を清めるために使う)取りから始まります。その後、神社で神事が行われ、お田植となります。お田植は、神社の南方に広がる田んぼの中にある古墳のような形をした森山に隣接する御神田(オセマチ)で行われます。お田植の前には、ガマオイジョウ姿(老人が神の化身(ガマガエル)となった姿)の社人が歌う田植え歌に合わせ、社人オイジョウがお田植舞を奉納します。そしてお田植が終わると、参加者全員が森山の端の平らな場所に集まり、直会(ナオライ)が行われ、めでた節が歌われます。

ドラメルタン号漂着の碑とインギー鶏

町指定文化財 平成4年9月14日指定
インギー 明治27年4月25日午後11時ごろ、前之浜の塩焚き小屋にいた羽生嘉助氏は、真っ暗な沖の方から探照灯を照らし、花火を打ち上げて来る異様な大船を発見しました。その4本マストの大船は、英国帆船のドラメルタン(DRUMELTAN)号でした。4月11日に上海を出港したこの帆船は、アメリカへの航海の途中、暴風雨で前之浜に座礁したのです。コーウェル船長以下、29名の乗組員は、島民の協力で無事救出され、うち13名は、船が離礁するまで真所集落などに長く滞在し、島民と交流がありました。
6月4日には、6隻の英国東洋艦隊が前之浜沖に集まり、6月9日夕方にドラメルタン号を暗礁から引き出しました。そして、座礁から53日後の6月16日、ドラメルタン号は、東洋艦隊に曳航されて、長崎へと修理のために出発しました。
この滞在中のお礼として、船内に食糧用として飼われていた11羽の鶏をもらいました。地元の人々は、この鶏を「インギー鶏」と呼んで、今日まで大切に守り育てています。なお、「インギー鶏」の名前は、イギリス人のことをインギーと呼んでいたことに由来します。原産地は中国南部で、現在は種子島だけに原種が残る珍しい鶏です。
ドラメルタン号漂着之碑は、言葉や風習の違いを越えて交流した人々の心温まる物語を、永く後世に伝えるために建立されました。

一陣長崎鼻貝塚遺跡(いちじんながさきばなかいづかいせき)

町選定文化財
一陣長崎鼻 中之下字一陣の太平洋に面した砂丘上にあります。昭和29年1月、土器片・骨片などが発見されたことにより、昭和31年8月、広田遺跡を発掘した盛園尚孝氏が中心となり、南種子高校生が参加し、本格的な発掘調査が行われました。調査の結果、この貝塚は、縄文時代晩期の遺跡であることがわかりました。出土品は、石斧・鹿や猪の歯・鯨の椎骨・海亀の上下顎骨・魚骨・土器等で、ジュゴン製のかんざしも出土しています。また、この貝塚から出土した老人に近い男性の人骨に、風習的な抜歯や人為的な水平研歯が施されていて、南島における縄文時代の抜歯風習を考える上で貴重な資料といえます。
平成21年には、町教育委員会によって発掘調査が行われました。その際、広田遺跡の人骨が身につけていたものと同じ貝輪(オオツタノハ貝輪)が出土しました。この遺跡は、広田遺跡より1,000年以上古い遺跡ですので、この貝輪は、種子島における最古の貝製装身具といえます。

門倉・前之浜自然公園(かどくら・まえのはましぜんこうえん)

町指定文化財 昭和47年3月30日指定
門倉 種子島の最南端門倉岬から北に湾曲して、東に竹崎の宇宙センターへと続く海岸一帯が門倉・前之浜自然公園です。西は屋久島を一望でき、紺碧の海に浮かぶ数々の瀬と小島によってつくられる風景は美しく、海と白砂と木々と水田地帯がおりなす四季折々の色彩も豊かで別名「七色の海岸」ともいわれています。
また門倉岬沖には黒潮が流れ、この一帯には古代よりさまざまなものが流れ着きました。特に、1543年に異国船が漂着し、日本で初めて鉄砲が伝えられたことは有名です。さらに前之浜には縄文時代の遺跡もあり、歴史ロマンと素晴らしい景観の両者を満喫できる場所となっています。

鉄砲伝来紀功碑(てっぽうでんらいきこうひ)

町選定文化財
鉄砲伝来紀功碑 天文12年(1543)8月25日、本村前之浜に異国船が漂着し、 乗っていたポルトガル人から鉄砲が伝えられました。 また、この出来事は、ヨーロッパ人が日本に初めて上陸し、西洋の文化と日本の文化が初めて接触した出来事でもありました。
この日本の歴史に大きな影響を与えた記念すべき事実を後世に伝えるため、西之青年会が中心になり、地区民の協力を得て、大正10年1月、門倉岬に鉄砲伝来紀功碑を建立しました。
鉄砲伝来はわが国に技術革新をもたらし、わが国の産業振興に貢献しました。それだけでなく、鉄砲という新兵器の登場で、戦国時代に終止符が打たれ、平和を招来する原動力となりました。中世から近世に歴史が大きく転換する契機となったこの鉄砲伝来は、西之村の地頭西村織部之烝が、乗船していた明国人の五峯と砂上で筆談し、その重要性を認め、早馬で赤尾木城に急報したことに端を発するのです。

西之本国寺盆踊り(にしのほんごくじぼんおどり)

町指定文化財 昭和47年3月30日指定
西之盆踊り 平野にある本国寺で、毎年8月16日に、その門徒衆(もんと しゅう)(現在は地区民)によって行われています。昔は、種子島の各寺で踊られていたそうですが、現在も行われているところは少なく、伝承すべき芸能のひとつとなっています。
踊りは、まず色模様じゅばん姿の大太鼓、花笠姿のイレ鼓やカネ、カンモク(カムキ(冠)の意。精霊の化身である)姿の笛といった鳴物グループの先導で、カンモク姿の扇子を持った多人数のグループが入場します。そして、大太鼓・イレ鼓・カネのグループを中央に、その周りを扇子を持ったカンモク姿の踊り手が輪になって囲み踊ります。また先導した笛の吹き手も吹くのをやめ、この輪に入って踊ります。踊りは先祖供養の踊りなので、賑やかさはありませんが、静かでとても奥ゆかしい踊りです。

遠矢碑(とうやひ)

町指定文化財 平成20年4月28日指定
遠矢碑 西之本村自治公民館前に遠矢落碑が、長田(鳴子坂下の土手)に遠矢射碑があります。遠矢とは、どれだけ遠くまで矢を放てるかを競うもので、太平の世における武術錬成用の競技でした。遠矢碑は、弓の名手だった西村時員(西之村の地頭西村時苗の次男)が、強弓さを人々に示すために建てたといわれており、当時の競技の様子とともに当時の生活の雰囲気を今に伝える貴重な資料です。
碑文によれば宝永3年(1706)の正月吉日に、遠矢射碑の辺りから矢を放ちました。その矢が落ちた場所が遠矢落碑の場所で、その距離は4町3段3間1尺5寸(約500m)でした。検見武士(遠矢を確認する武士)は、遠藤家統・西村時次・遠藤家欽・上妻隆居で、竿取(距離を測る者)は日高実直・岩坪武継で、指南を向田氏宗次がつとめたことなどが記されています。
口碑によれば、この時の遠矢は、まず亀の甲(本村-田代間の山の山頂)から一番矢を放ち、それが遠矢射碑のある長田に落ち、二番矢は長田から放ち、遠矢落碑のある中之崎に落ち、三番矢は中之崎から放ち、高筒に落ちたそうです。矢の距離はいずれも4町3段3間1尺5寸だったそうで、矢の落ちたそれぞれの地点に碑が建てられましたが、三番目の高筒には碑が現存していません。また、別の口碑によれば、一番矢を矢鉾の峰から放ち、落ちた所がジュルシで、ここに小さな石がありました。そこから二番矢を放ったところ、亀の甲に落ちました。以下、三番矢が長田、四番矢が中之崎、五番矢が高土であったといいます。

砂坂孫左衛門の碑及び業績(すなさかまござえもんのひおよびぎょうせき)

町指定文化財 昭和55年4月9日指定
砂坂孫左衛門 砂坂孫左衛門の碑は、官造牧から西の海岸に降りた高瀬原にあります。この高瀬原付近は断崖絶壁で通路がなく、干潮時は危険な磯つたいを、満潮時は山手の急な道を3倍近くも遠回りして通るという大変不便なところでした。この難所に独力で道を開通させたのが砂坂孫左衛門です。その業績をたたえ後世へ伝えていくために、昭和2年西之青年会により建立されました。
明治4年45歳の時、孫左衛門は娘の病気の平癒を神仏に願い、また人々のために高瀬原に道を作ることを決心しました。作業は困難を極めました。そんな中、願いかなわず娘は世を去ってしまいましたが、孫左衛門は道路づくりを続けました。その強い熱意に感動した集落の人々もいつしか孫左衛門に協力するようになり、ついに明治10年8月、12町(1,300m)余りの道が完成しました。

田代化石(たしろかせき)

町指定文化財 昭和56年4月11日指定
田代化石 田代集落から本村に向かって約100mのところにあります。化石を含む岩石は、約500万年前(新第三紀鮮新世中頃)に、浅い海で堆積したと考えられる増田層(種子島の基盤を形成している地層のひとつ)の中にある団塊状石灰岩で、カキなどの二枚貝、巻貝などの化石を多量に含んでいます。石は非常に硬く、これは化石ができる時に貝の中のカルシウム分が溶け出してまわりの砂を固めたからです。
 貝の化石は、平山や茎永、島間でも発見されていますが、田代化石のように何種類もの貝が一緒になって、しかも転石(ノジュール)のように出てくるのは珍しく、町内では河内の化石群で、ほかには中種子町納官平鍋でみられます。こうした化石を詳しく調べていくことによって、500万年前の南種子には、どのような生物がいて、どんな自然環境であったのかを知ることができるのです。

浜の山の石塚(はまのやまのいしづか)

町選定文化財
浜の山の石塚 本村の浜の山近くにあります。石を円形状に積み重ねた真ん中に自然石の石塔が建てられており、集落の人々はここを浜ん山の祭場と呼んでいます。毎年1月5日頃、その年の無事を祈ってシュエイを取り、潮祭が行われていましたが、現在は行われていません。
現在の浜の山の祭は、旧暦2月19日に御崎神社・千人熊・田の神・イゼ祭と合わせた潮祭のひとつとして行われています。潮祭は潮風災害よけとしての浜の山とそれを守ってきた祖先に感謝し、豊作を祈願する祭です。
まず御崎神社で神事を執り行った後、神社下の海岸で禊をし、20㎝くらいの丸石を拾い、浜の脇にある千人熊(遭難船の漂着者を祀っているといわれる)をお参りします。そして浜の山の石塚をお参りし、海岸で拾ってきた丸石を石塚の周りにお供えします。次に夏田園にある田開きの神、鹿鳴川にある一番イゼ(井関)と二番イゼの中ほどにある水神にお参りします。最後に直会をし、種蒔きの日取りなどを決めて祭は終わります。
浜の山一帯の防風林は、日欽あるいは六助という人が作り始めたと伝えられており、石塚に建てられている石塔は、その人の墓であるともいわれています。

砂糖製造師「前窪」氏の墓(さとうせいぞうし「まえくぼ」しのはか)

町選定文化財
砂糖製造師 本村浜の山の墓地(大前)にあります。前窪氏は、文政10年(1827)、松寿院が島主と藩主の許可を得て、種子島で初めて砂糖の製造を始めるにあたり、徳之島から製糖技師として招いた人です。その功績は高く認められ、種子島家譜に「米1石を西之村本因寺の番僧に与ふ。砂糖製師範徳之島の前窪、西之村に於いて病死す。其の喪祭石碑等の費用を償はんが為なり」「米2斗を西之村の土民孫兵衛の後室に与ふ。砂糖製師範徳之島の前窪、病んで床に臥してより死に至るまで、常に側に在りて篤(とく)誼(ぎ)を尽すを以てなり」等の記述があります。
前窪氏が導入した前窪式甘蔗(かんしゃ)圧搾機(あっさくき)は樫木で作った木車で、牛に引かせて廻したので牛車ともいいました。朝寅の刻(午前6時)から酉の刻(午後6時)までかかって搾り、汁1石5斗(約270ℓ)を5つの鍋で煮詰めて作りました。砂糖は、椎の木製の樽に120斤(約72kg)詰めとして島主の倉庫に全部収納し、それから鹿児島経由で大阪へ送られました。島民の使用は一切禁止され、これに反すると厳罰に処され、協力すると表彰されたといいます。
前窪氏は徳之島には帰らず、天保2年(1831)1月に西之村で病死しました。

枕状溶岩(まくらじょうようがん)

町指定文化財 昭和56年1月1日指定
枕状溶岩 大川小学校から西之に行く途中、上立石海岸の波打ちぎわ約10m四方の狭い範囲に見られます。直径50~80㎝の楕円体に近い丸みを帯びた塊が集まってできた溶岩です。枕状溶岩(俵状溶岩ともいう)は熊毛層群(種子島の基盤岩層で約7000万年~2600万年前)の中に見られ、表面はパン皮状、暗紫色~黒色のち密な岩石で、縦横に石英脈が入っています。溶岩が深海底で噴出し、表面だけが冷やされて固まることを繰り返してできたもので、枕(俵)を積み重ねたような形をしていることから、こうした呼び名がついたといわれています。

種子島製塩初地【下立石塩釜神社】(たねがしませいえんしょち【しもたていししおがまじんじゃ】)

町指定文化財 平成3年5月1日指定
種子島製塩初地 立石は、種子島家譜に「始めて塩釜を建つ 第一は西ノ村の立石 第二は国上村の湊 或いは云う 第一大崎 尼泊 第二 久志瀬戸 竹之川なりと」という記述があることから、製塩業はじまりの地の一つとされています。
大正2年5月に書かれた塩釜伝には、建仁元年(1201)、信基(種子島氏元祖)が島内を視察中、西之村立石が製塩業に適していると考え、塩焚きの技能を持つ臣下二人を派遣して、集落民に塩焚きの技術を教えさせたとあります。さらに6代島主時充の時、製塩法や年貢法を定めるとともに、塩戸(塩焚きに携わる人)の祖先の遺業をたたえ、塩焚きの集落には薪用の山林、駄馬飼育用の牧場を与え、その年貢は塩で納めさせたとあります。 

横峯遺跡(よこみねいせき)

県指定文化財 平成15年4月28日指定
横峰遺跡 横峯遺跡は、種子島で初めて発見された旧石器時代の遺跡です。発掘調査によって旧石器時代・縄文時代草創期・縄文時代早期という3つの時期にわたって、人がこの地に住んでいた跡が見つかりました。
旧石器時代の層は、3層確認されました。特に種Ⅳ火山灰と呼ばれる約3万年前の火山灰の下にある層で見つかった礫群は、国内最古級の調理場跡の発見として大変注目を集めました。また、敲石や台石、磨石、礫器も見つかっています。
3万年前の遺跡は、全国的にも発見例が少ないのですが、種子島では、横峯遺跡の他にも局部磨製石斧が出土した中種子町立切遺跡や日本最古級の落とし穴遺構が見つかった大津保畑遺跡などがあって、内容も豊富です。
こうした種子島の旧石器遺跡群は、琉球列島の旧石器文化の成立やその性格・内容を研究するうえで、学術的に大変重要であることがわかっていて、後世に守り伝えていくべき貴重な文化遺産といえます。

 上妻城跡(こうづまじょうし)

町指定文化財 昭和56年1月1日指定
上妻城跡 島間向方の島間小学校から豊受神社一帯の地形を利用した標高約75~110mに立地する山城です。現存するのは土塁(土塀)と堀切で、下城・内城・仮屋・水上などの地名が残っています。水上城・仮屋(居住場所)・内城(政務を行う)の3つの曲輪(周囲に土や石の囲いを設けた平地)が東西に連なっていて、さらに外城・殿川・桜園など合わせて6つの曲輪群で構成された山城と考えられています。
上妻城に関する記録は残されていません。種子島家譜では肥後信基(種子島氏元祖)が北条時政から種子島・屋久島など南島12島を与えられた時、種子島地頭は大浦口氏で代官が上妻氏であったとされています。言い伝えではその代官(在島)だった上妻氏の居城だといわれていますが確証はありません。上妻城の特徴はその規模の大きさにあり、大隅諸島最大です。また、自然地形を利用し、堀切が深く、各曲輪の独立性が強い南九州地域に見られる中世城郭に類似しています。

 火合峰(ひやみね)

町指定文化財 平成22年3月8日指定
火合峰 火合峯は、古代に種子島で3カ所だけノロシ台が設置された場所の一つとされています。
この頃、全国的にノロシが設置されますが、それは663年白村江(今の韓国の錦江付近)で、日本と百済の軍が、唐と新羅の連合軍に大敗したことに起因します。日本は防衛対策の一つとして、高速軍事通信ネットワークのノロシ(古名トブヒ=ほう烽=トビ・トミとも訛る)を、九州の島々から都にまではり巡らせました。
種子島は、東シナ海を挟み、唐(中国)と対面していて、当時の日本の最南端の島であったため(この後、大同2年(702)「多禰の国」が創置される)ノロシが配備されたのです。
屋久島宮之浦の火立峯・住吉岬の火立峯・花里の火立峯などと共に、南種子では、ここ島間の火合峯が古代のノロシ台跡とされています。
江戸時代に作成された元禄絵図によると熊毛郡では、赤尾木・増田・島間・口永良部・宮之浦・永田・湯泊等が遠見番所と書き込まれています。沿海の村々に設けられたこれらの番屋は、かつての古代ノロシ跡が用いられる場合が多かったようです。
このように種子島のノロシは、古代に使われたほか、蒙古襲来、鉄砲伝来、さらに江戸時代になると異国船来航の際に、実際に活躍したと思われます。

貫門(ぬきもん)

町指定文化財 昭和47年3月30日指定
貫門 貫門は2本の柱を立て、上方をくりぬき、貫を通した門です。この型の門は、島主の許可がなければ立てられないものです。
網切吉右衛門は、慶長2年(1597)豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、島津軍の水手(船員)として従軍し功績を立てました。南種子村沿革史に「御沙汰書を害虫に侵され其実績を詳にすることは能はざれども口碑によれば、我が種子島に於いて作りたる木船に乗り朝鮮興善島に押しかけたとき、敵、明軍は金網を張り防禦したが我が水手は能くそれを切り破り軍を進めたりぞ」との記述があります。帰島後、その功績を後世に伝えるため、島主より代々、貫門を立てることを許可され、さらに網切の名と帯刀を許されることになったといわれています。

大塚山のヤッコ草及び石塔(おおつかやまのやっこうそうおよびせきとう)

町指定文化財 昭和56年1月1日指定

ヤッコ草

ヤッコ草 学名Mitrastemon yamamotoi Mak.ヤッコ草科の一年生植物で、椎の木の根元に群生する高さ7㎝ほどの寄生植物です。四国・九州・沖縄の限られた地域に見られる珍しい植物で、東市来町湯田のヤッコ草発生地は、国の天然記念物に指定されています。11月頃に白い花をつけ、その形が奴(ヤッコ)の姿に似ていることからヤッコ草の名がついたといわれています。種子島では、昭和42年頃発見され、全国でも有数の生息地となっています。

大塚様の石塔

大塚山石塔 大塚山の中央に五輪の石塔が3基建立されています。口碑によると、応仁3年(1469)島主時氏が律宗を法華宗へ改宗したとき、島間の地頭大塚氏はそれに従わなかったため、竹のこぎりによる首切りの刑に処されました。その悲惨な最期をとげた大塚氏の御霊を供養するために石塔が建てられたとされています。8月13日に大塚山・大久留目屋敷で慰霊の祭が行われていましたが、現在は大久保自治公民館で行われています。

島間港・「伊能忠敬」種子島測量上陸の地(しままこう・「いのうただたか」たねがしまそくりょうじょうりくのち)

町選定文化財
伊能忠敬 島間港は南種子町の海の玄関口として、またロケットの荷揚げ港として重要な役割を果たしています。港の歴史は古く、奈良時代から利用されていたと考えられています。江戸時代には、種子島氏に納める年貢米の倉庫が4棟ほど建っていたとされています。年貢米は、風を見計らって西之表の赤尾木城や鹿児島の種子島家の屋敷に船で運ばれていたようです。
また、島間港は伊能忠敬の種子島測量開始の地でもあります。文化9年(1812)4月28日、屋久島を経て島間に上陸、5月1日から南北二手に分かれ測量を開始しました。南隊は坂部定兵衛以下8名、島津家役人36名、種子島家役人27名。北隊は伊能忠敬以下8名、島津家役人59名、種子島家役人71名、総勢209名でした。測量には16日間を要したそうです。

 南種子町河内の貝化石層(みなみたねちょうかわちのかいかせきそう)

県指定文化財 平成23年4月19日指定
河内化石群 約1300万年前、河内一帯は内湾で、干潟が広がっていました。そこに生息していた生物が化石となったのが、この河内の化石群です。
河内の化石群は茎永層群河内層に含まれており、示準化石ヴィカリア(Vicarya callosa japonica Yabe and Hatai)が見つかっていますので、中新世中期の約1300万年前の海成層であることがわかりました。この時期の地層は、九州では種子島の茎永層群でしか確認されていません。
河内の化石群には、泥干潟に「カキ礁」を形成した大量のマガキの化石と、潮間帯から潮下帯の砂底に住むゴカイ類の巣穴(生痕)化石が見つかっています。他にもサルボウ・ウミニナ・ヤマガメ等の化石が見つかっています。とくに陸に住むヤマガメの化石は琉球列島形成前のもので、中新世中期以降の古地理(琉球列島形成史)と生物地理区の変遷を知るうえで極めて貴重な化石標本です。

喜道(日悦上人)の墓及び遺品(きどう(にちえつしょうにん)のはかおよびいひん)

町指定文化財 平成28年2月25日
日悦上人 日悦上人の墓は河内神社境内にあります。日悦は10代島主幡時の弟で、出家して喜道と名のり、大会寺(西之表天神町の菅原神社附近にあった)の住職となりました。11代島主時氏は、律宗を捨て法華宗を信仰し、応仁3年(1469)改宗の命を出しました。喜道は熱心な律宗信者で、改宗に反対だったため赤尾木を離れ、河内の極楽寺に移りました。
喜道は、余生を河内の人々のために尽くすことに努めました。しかし、島主からの圧迫が厳しくなったため、河内の人々に迷惑がかかることを恐れて、この地を去りました。
去るにあたり、お世話になった河野家に「尋ぬともあとは白波荒磯の見る目もあらで何とあらそう」という辞世の句を書き残し、さらに法衣を置いて去りました。それは、延徳2年(1490)9月11日のことであったといいます。

元御料馬「白波号」碑(もとごりょうば「しらなみごう」ひ)

町選定文化財
元御料馬 前ノ峯陸上競技場南側にある上野神社境内にあります。大正3年1月、馬産改良に尽力した上妻源一郎氏が、明治天皇から下賜された御料馬白波号について、後世に伝えるため記念碑を建立しました。
明治18 年に県知事は、種子島を優良馬の生産地に指定し、種馬千秋号を贈呈しました。さらに産馬組合の設置を命じ、これを奨励したため、種子島の馬産改良は活気づきました。この改良に力を尽くしたのが上妻源一郎氏です。このような上妻氏の功績が認められ、明治25年、宮内省より県庁を経て、天皇の御料馬白波号が上妻氏へ貸し付けられました。上妻氏は恩典に報いるため、種馬用として大事にし、馬産改良に力を注ぎました。


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